どうして私は、また引き受けてしまったんだろう

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誰も手を挙げないとき、私が手を挙げていました

多くの人は、「自分らしく生きたい」「もっと自由になりたい」と思いながら、他人の期待や、周囲の状況に反応して生きています。

私も、そうでした。

誰もやろうとする人がいないと、「私しか、やる人はいないんだな」と思ってしまう。

本当は気が進まなくても、

「仕方がないな」 「じゃあ、私がやるわ」

と言って、いつの間にかその役を引き受けていました。

誰かに強く頼まれたわけではありません。自分から引き受けているんです。

自分で「やる」と言ったのに、しんどくなる

けれど、実際にやり始めると、やっぱりしんどくなる。

「私は、こんなに大変な思いをしたかったわけではない」 「どうして、また引き受けてしまったんだろう」

心の中で思っていることと、実際に行動している自分が、どこかちぐはぐでした。

責める相手がいないから、自分を責める

自分で「やる」と言ったのに、しんどくなっている。

だから相手を責めることもできません。

最後には、「どうして私は、いつもこうなんだろう」と、自分を責めていました。

最近になって、ようやく気づいたこと

私はもしかすると、

「あなたが必要だよ」

と思ってもらいたかったのかもしれません。

役に立つことで、認めてもらいたかった。

誰かが困っているときに自分がその役を引き受ければ、そこに自分の居場所ができる。そうすることで、自分の存在意義を確かめようとしていたのかもしれない、と思ったのです。

私を動かしていたのは、責任感や親切心だけではなかったのかもしれません。

「役に立たなければ、私は必要とされない」 「何かを引き受けなければ、ここにいる意味がない」

そんな不安が、自分でも気づかないところにあったのかもしれません。

だから私は、自分が本当にやりたいかどうかを確かめる前に、「私がやります」と言っていたのでしょう。

これは自分の性格だと思っていた

誰かの役に立つことや、期待に応えることで、自分の居場所を守ろうとしてきたのだと思います。

でも、その生き方を続けていると、自分の時間や体力、気持ちは、いつも後回しになります。

必要とされる安心を得るために引き受けたはずなのに、最後には疲れ果て、不満を抱えて、そんな自分まで責めてしまう。

これでは、自分の人生でありながら、周囲の状況に人生のハンドルを握らせているのと同じです。

引き受ける前に、一度だけ立ち止まる

自分らしく生きるために必要なのは、すべてを断ることではありません。誰かを助けることが、悪いわけでもありません。

大切なのは、引き受ける前に一度立ち止まることです。

  • 本当に、私がしなければならないの?
  • 私はこれを、やりたいと思っている?
  • 引き受けなかったら、何が怖い?
  • 必要とされるために、また無理をしようとしていない?

そうやって、自分の気持ちと、身体の反応を確かめてみる。

ここで「身体の反応」と書いたのには、理由があります。

引き受けるかどうかを頭で考えているとき、身体のほうは先に答えを出していることがあります。喉が締まる。肩が上がる。息が浅くなる。——考える0.1秒前に、神経が決めている。私はよく、そう言っています。

「やります」と言ったあとで、胸のあたりが重くなったことはありませんか。あれは、身体のほうが正直だっただけです。

断ることも、助けを求めることも、自分で選んだ行動です

そのうえで引き受けるなら、それは自分で選んだ行動です。

今はできないと断ることも、誰かに助けを求めることも、自分で選んだ行動です。

必要とされるために引き受けるのではなく、自分が本当に望んでいるかを確かめて選ぶ。

自由とは、誰の役にも立たなくなることではありません

何かをしている自分にだけ価値がある、と思わなくていいこと。

引き受けても、引き受けなくても、自分の存在価値は変わらないと、少しずつ身体に教えていくこと。

それが、他人に預けていた人生のハンドルを、自分の手に取り戻すことなのだと思います。

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